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■ビックリマンの思い出
ビックリマンチョコのついているシールというのは、当時、凄まじい力を秘めていた。
当時、というのは平成初期。バブル全盛、ファミコン全盛、ゲームボーイが出たか出ないかという時期。ガンダムで言うと逆シャア。仮面ライダーはBLACKでとてつもなく下手な歌でOPが話題を呼び、ちびまる子が大ブームを起こした。流行語で追うならば、セクハラやオバタリアン、24時間タタカエマスカ、イカ天などや、オヤジギャル、アッシーくん等が上がり、東京ラヴストーリーが持て囃されるような、そんな時代である。
そんな時代に僕は小学生をやっていた。
その小学生をやっていく上で、ビックリマンは避けて通れない道だったのだ。
まずビックリマンシールがどういう物か説明しよう。
ビックリマンシールとは、ビックリマンチョコについているおまけシールであり、表側にキャラの絵と名前、裏に説明が書いてある。そして、主に大別してシールは、天使、お守り、悪魔の三種類に分けられており、その他にヘッドという、とてつもなくレアなシールが一弾に一枚から数枚存在する。
一弾、というのはこのビックリマンシール、何弾にも分けられており、一定の期間が過ぎると旧弾のシールは無くなり、新しい弾のシールと入れ替わる。つまり一定期間しかシールは買えないのである。
と言うようなものが一応のシステムだった。
そんなもん集めようとする方が悪い、そう思うかもしれない。
しかしながら、ビックリマンシールの恐ろしい事は、そんなコレクター意欲の裏側に、最悪のルールを植え付けてしまった事にある。
というのも、このシールはみんな欲しいわけである。つまり、好きで当たり前、嫌いなら話題から取り残される訳だ。取り残されてしまえば最後、子供というのは残酷な生き物のため、友人関係という同盟がいつの間にか無くなり、気が付くと孤立無援の状態に陥っているという事がある。
つまり、シールその物に価値はないだろうが、それでも話題に取り残されない為の必須アイテムとして、ビックリマンシールは機能したのだ。
それだけではない。ヘッドという物を持つと、子供の集団の中でもヘッドなのだ。「○○君さー、ヘッド沢山持ってるらしいよ」「まじでー? 遊びにいこうぜー」
と言うような具合に、ヘッドを持っている事は絶大な力に繋がった。見せびらかす事が出来、尚且つ話題になり、集団の中で上位に君臨する事が出来、その上シールを与えれば同盟を結んでくれるという、まさに理想のシールがヘッドだったのだ。
実際僕も、ヘッドを沢山持っていて、叔父さんが駄菓子屋だかを経営していて、毎弾数箱買うという超実力者とコネクションを作り、そのお零れに預かったりしたものである。
つまり、子供社会に於いて、ビックリマンシールを持っていればそれだけ地位が安定する訳である。即物的で残酷なルールである。
だから、例え友人作りが下手くそな人間でも、シールさえ持っていれば友人は作れたのである。
また、ビックリマンシールがブームを起こした原因はまだあり、そこには集めるという心理の裏を掻いた策があった。
シールは大別し、天使、悪魔、お守りに分けられると言ったが、これらは1セットになり、裏面には、その系列の残り二枚の絵が描かれている。
残り数十枚ではなく、残り二枚なら集める気になるだろう。
が、大体は思ったようにシールを集める事は出来ず、他の系列のシールを引くことになる。買えば買うほど欲しくなるというコレクター魂に火を付ける策である。
また、弾がすぐに切り替わるので、早々に買わなければコンプリートは無理である。結果、沢山買うわけだ。
このように、ビックリマンシールの購買者は実に搾取され尽くされていた。
僕は例の叔父さんが駄菓子屋の子供や、近所に住んでいたスネオみたいな子供と「ダブった時は優先的に僕に頂戴ね」という同盟を結んでいたため、結構な数の必要ないシールは集まっていったが、ヘッドは貰える訳が無く、やっぱり買うしかなかった。
しかし、終いにはあまりの物量差に閉口し、ムックを買ってきて、其処に載っているストーリーや設定、サイドストーリー、カードの殆どを暗記し、物量ではなく知識で優位に立った。シールを買う必要が無く、尚且つビックリマンには詳しいという位置付けの人間は居なかったため、何かと重宝がられたのは作戦勝ちだったと言えよう。
さて、ビックリマンの活躍を嗅ぎつけたのか、他の各社も挙って類似商品を展開した。
SDガンダムシリーズのカードダスや、ドラゴンボールのカードダス。また、ビックリマンシールの類似品などである。
これらも爆発的な人気を博した。
が、種類があるという事は、価値観の多様性に繋がり、即ち、「こっちは興味有るけどこっちは興味ない」という派閥の成長を促すと同時に、興味が全くないという価値観を認める事にも繋がった。
従って、興味がないという連中が他の娯楽に手を出し、それが多数派に転じれば、もうカードやシールを集めなくても良いわけである。
この頃、スーパーファミコンやPCエンジンなどが発売され、シールやカードという一過性の物よりも、ゲームの方に興味が移っていった。僕もまたスネオみたいな奴に、「スーパーファミコンで順番が来ればやらせてよ」という同盟を結んでいた。
何しろゲームは一本一本が高いわけだし、そうそう本数を持っていなくても何とかなる、そう思ったのかもしれない。
が、今度は「どのソフトを持っているか」という事でまたにわか同盟が結ばれるわけである。即物的な慣習は断ち切れなかった訳だ。歴史は繰り返されるのである。
このような即物的な状態は愚かであり、ブームに流されて居るのは明白だった。
従って、アレだけ一生懸命覚えたビックリマン関連の知識は今殆ど無い。
また当時SDガンダムのタイアップか、ガンダムの1stから順番に再放送が随分されていたが、僕はそういうのが見たかったのではなく、騎士ガンダムやSDガンダムとしてのストーリーであり、知識で物量に勝る為の武器が欲しかったのだ。その為、あんまり力を入れてガンダムは見なかった。後年たまたま見返した際に面白いと思わなければ、SDガンダムとのギャップで生まれた、「暗くて重苦しくて何をやっているか判らない」という固定観念を拭えなかっただろう。
ブームを追うのは構わない。しかしブームに流されるのは面白くないのではないだろうか。今現在何がブームだか判らないが、そればかりに目を向けていると、きっと足を掬われる。それだけは間違いないのである。娯楽といえどのめり込まず、ほどほどに楽しまなければ、自分を見失ってしまう。ビックリマンシールを見ると、そんな風に思うのである。 |
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