3/28
ブレードランナーの感想文

書くのが遅れたが、今回は司馬ともりさんからリクエストを頂いた。ありがとうございます。
さて、一応の注釈として、昨今のオタク文化と比較という形を取らせて頂く。そうでもしないと今書く意味がない。
また、評論ではなくあくまでも感想文という形で書かせて頂く。
と言うわけでブレードランナーである。
一応どういう作品かを説明させて頂くが、82年公開のアメリカ映画であり、私は公開当時に見ていない。
原作はフィリップ・K・ディック著の『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』これも読んでいない。
昔うっすら見た記憶はあったのだが、何しろ不鮮明で、仕方無く近所のビデオ屋でDVDを探すが無く、今回見たのはたまたまあった最終版である。従ってナレーションや、ラストの違いを論じることは出来ない。
と言うような悲惨な状況だったので、5回くらい見返してみた。
物語は、舞台は2019年ロサンゼルス、絶えず酸性雨が降り注ぐ地球に、過酷な開拓地である火星から男3人・女3人のレプリカントが脱走してきた。彼らの捕獲を依頼された“ブレードランナー”デッカード(ハリソン・フォード)は、人間そっくりのレプリカントたちを追う、というストーリーである。(以上、ウィキペディア (Wikipedia)ブレードランナーの項から抜粋)
しかしながら、このロサンゼルスは普通じゃない。
フィフス・エレメントやティコ・ムーン等の後生の作品も相当に独創的な世界観だったが、これはもう、おかしいとしか言いようがない。
ブラックレインや、killbillで描かれた日本は、日本でありながら日本ではなかったが、(パールハーバー等、間違い日本を描いた映画は数多いが、ここでは割愛)この世界はロサンゼルスでありながら、ロサンゼルスではない。
強力わかもとのCMを流す巨大広告TVがあったり、うどん屋があったり、番傘を使ったり、でも片方じゃ西洋風の衣装だたりと、和洋折衷。滅茶苦茶な世界が其処には広がっている。
これは恐らく、当時は日本という国が爆発的に消費を拡大させ、貿易黒字を挙げていた時代だったため、日本に乗っ取られてしまうというある意味で暗示的な意図があったのではないかと思う。これを裏づけるものとしては、今年公開のイノセンスに於ける異常なまでの韓国、中国に浸食された世界観などが挙げられる。
すっかり弱くなってしまった日本という国が、アメリカ資本ではなくアジアに乗っ取られてしまうという不安感。攻殻機動隊から更に加速したアジアのオリエンタルな雰囲気は、そういう意図があったのではないだろうか。まぁ、単純に千と千尋の神隠しでアメリカに見せつけた本場のオリエンタルな雰囲気が、大変評価されたこと(政治的な配慮や、その手の空気は昔から評価されるという事を抜きにしても)から来ていると見ても良いが、一作目からあのアジア臭は酷かったので、あまり強く意識している訳ではないのだろう。仮に意識してあそこまで無駄にごてごてと味付けしたのならば、単純に阿呆である。日本のお客さんを蔑ろにして海外受けを狙うのは末期だと思うのである。まぁ、それは余談として。
さて、後生の作品との対比はこの位にして、この作品の根底、レプリカントと人間の違いの話である。
昨今のこの手の「人間に似たロボット」という設定の場合、CG技術の発展から、ターミネーターの様に表皮をめくると機械があったりと、機械であることが明らかにビジュアルで表現されるのが常だが、この作品では機械であることが最後までビジュアル的には判らない。
それがどのような効果を生み出しているかと言えば、人間との違いが見あたらない中で、主人公デッカードに追われるという、彼らレプリカントが、何ら人間と変わりないのではないか、という感覚を視聴者に抱かせる効果がある。
当初、人種差別を暗示しているのではないか、と思ったのだが、これはどうも宗教的な差別を暗示しているのではないかと思い直した。見た目は人間と変わらず、しかも白人で、主人公デッカードも白人である。同じ人間、人種でありながら、宗教という実に精神的な物で人間を差別する。現実の世界はそれ程に愚かしい。
また、根幹に関わる話なので、背景色と同じ色にするが、ユニコーンの夢と折り紙から、デッカード自身もレプリカントだったという解釈が出来るという。追う者も追われる者も同じレプリカント…。レプリカントにレプリカントの分析をさせる事等も実に意味深だ。
公開から20年を過ぎても、人間は未だ宗教論争を解決していない。むしろ、過激になっている節すらある。真に恐ろしいのはレプリカントなどではなく、人間そのものなのである。

3/12
■春休み読書感想文 ∀ガンダムをよんで mof担

ロボットアニメは死に体である。
まー当然だろう。アホみたいに乱造され尽くされ、ちょっとやそっとの覚悟で作ろうとすれば過去の模倣になってしまう。
近年の作品はそれを見越してか、継ぎはぎのパッチワークの様な作品が多い。
エヴァンゲリオンなんかは特撮やら過去のロボットアニメやらを滅茶苦茶にぶち込み、それを意地で隠し通そうとしていた。
でも根底に流れている作品は大半がロボットアニメであり、一皮剥けば即座に何が元か判ってしまうという構造になっていた。
ナデシコは過去のロボットアニメを作品中で小馬鹿にしたような劇中劇を展開し、シナリオ的にも過去のアニメーションの模倣をしていた。こういう流れがあって、オマージュ万歳の流れになったのだろう。「ガンダムばっかりだからつまらない」と言ってライディーンとエヴァを繋ぎ合わせたラーゼフォン、過去の名作をなぞったロボットかと思いきや、唖然とするような馬鹿げた展開を見せてくれたビッグオー、過去のガンダムをそのまんま繋ぎ合わせて、隠そうともしないガンダムSEEDなど、末期である。業界内でリサイクルをしてるような状態はどう考えても死に体である。
アニメ業界を見てみれば空前の萌えアニメブーム。ロボットアニメは存在その物が希有で、一縷の希望を抱いて見るがその大半が茫然自失としてしまうような駄作ばかりで、本当に風前の灯下、その座を守りきったガンダムSEEDの健闘ぶりを褒めたいところだが、残念ながらガンダムSEEDは記す必要性も無いほどに馬鹿げた作品であることは言うまでもないことだ。
それではそんな死に体のロボットアニメ界で、∀はどういう戦い方をしたのだろうか。

1.
1999年、∀は放送が始まった。96年のXから3年。富野監督がガンダムの監督として作品を作るのは、93年〜94年のVガンダムから実に5年の月日が経っていた。もっとも、前年にはブレンパワードが放送され、この作品はファンの間で物議を醸した。
この頃のロボットアニメは、98年にガサラキ、99年にはリヴァイアス、ダイ・ガードくらいのもので、他はエロゲからの昇格組が地上波アニメに進出したり、カードキャプターさくらの放送が始まったりという頃だ。ちょっと書いただけでも∀ガンダムが突き進む道は茨の道だという事は判って頂けるだろう。Wガンダムで新規ファンを獲得するものの、ガンダムXはさっさとファンが離れ、途中で打ち切られた作品ではあるし、萌えアニメが氾濫し始めた頃で、富野ガンダムだからと言って騒ぐのは本当に一握りの人間だけだった。その上、メカデザインはシドミード、キャラデザインは安田朗という聞き慣れない名前。ブレンパワードのいのまたむつみ氏起用が信じられないのに、またしてもとてつもない所からの抜擢。英断なのか愚行なのか、傍目には判らないところがあった。
そして視聴。
唖然とした。一話目からガンダムに乗らず、股間を金魚で隠した主人公なんて初めて見た。その後股間を金魚で隠すような主人公は、戦闘に引き込まれていくのだが、なんともその展開はガンダムらしくない。主人公も他のキャラも、ガンダムっぽさが見えないし、ガンダムがそもそもガンダムっぽくない。
そもそも牧歌的な空気が支配するガンダムなんて今までに見たことがない。戦場で死んだり殺されたりする様を見て苦悶するような作品だった筈である。
死に体のロボットアニメで、救世主となるかに見えたガンダムは、ガンダムらしくなかったわけだ、あらゆる意味で。
その後ストーリーは少しずつガンダムらしさを見せ始め、怒濤のラストへ向かっていくのだが、そこまで待っていられなかった。
実際、僕は途中で白旗を揚げ、見るのを止めた。
その後ビデオの∀を見て自分の愚行に呆れかえったわけだが、明らかに∀の最初のインパクトは僕には強すぎたのだ。
なんでそんなに強烈だったか。
これはロボアニメの必然性、ひいては作品というものが持ち得る絶対の理論というものがあるからである。

2.
ロボアニメで主人公が、一話目から主役ロボに乗らない事は許されない。必然である。何故かと言えば主役ロボは作品の顔であり、主人公はロボに乗ったり操縦する事で漸く主人公になるのだ。それまでの主人公は主人公ではない。
これには他に、クライアントからの要求だとか、その他諸諸の事情がありそうだが、ここでは割愛する。
しかし、一話目が全ての作品で掴みであり、もっとも重要である事は間違いない。その中でロボアニメの場合、ロボが作品の顔なのだから、視聴者にアピールするには主人公とワンセットで覚えさせるのが一番分かり易いからだ。
他の作品でもそうである。剣客ものなら主人公は剣を使うのが必須だろうし、ヒーロー物でヒーローに変身しないのはおかしい。女の子がわらわら出てくる作品で、メインヒロインが出てこないのは変だし、ギャグ漫画なのにギャグが無いのはお話にならない。確実に必然とされるルールが存在し、一話目からそれが無いのは余程の理由が無い限りはタブーである。何をアピールしたいか判らないし、視聴者もどう見て良いのか判らない。
ちょっと考えただけでも判りそうなもんである。
では、ガンダムだと銘打っておきながら、主人公はニュータイプでも富野台詞を吐くでもなく、ガンダムにも乗らず、ガンダムがガンダムらしくないというのは何か。
重大な挑戦である。
先程説明したが、あれ程に危険極まりない状況下で一話目から挑戦状を叩きつけたのだ。
挑戦状を受け取れない奴は去れという重圧と共に、この作品は始まったのである。

3.
だからこそ、カッコイイかカッコワルイかの論議は大変に的外れではないだろうか。そもそも、物議を醸すためにわざわざ難のある人を引っ張ってきているのだ。既存の概念で接する事自体が馬鹿げている。
リサイクル、模倣しか出来ない業界の廃れ方とは対称的に、新機軸を打ち出したその姿勢こそ買うべきであり、見た目云々の議論は実に愚昧だと言わざるを得ない。
それこそ、「シスプリの白雪は可愛いいや、亞里亞の方が可愛い。いや、アニメ版のアニメーターの魂がある千影が…」程度の論議に見えてしまうのだがどうだろうか。
なお、キャラの名前と顔が一致しないほど筆者はシスプリを知らない。悪しからず。

3/7
■イノセンス

イノセンスを見てきました。ネタバレ部分は反転で見えるようにします。
まずびっくりしたのは、家族連れの多さ。ワンピースを見るのだろうと思っていた家族連れが、全員イノセンスというのはかなりびっくりました。まさかスタジオジブリみたいなヌルイファンタジー見に来ようとしてんじゃねぇんだろうなぁとか思いつつ。
で、本編の前の予告編。デビルマン、キャシャーン、サンダーバード、スチームボーイ、ハウルの動く城とターゲット層が30代くらいのオタク向けに絞られているので、オタクが家族こさえて見に来ているのかなぁと勝手に分析。
さて本編ですよ。
あれ、あれあれあれ? 1とCGの方向性が違うので途惑う。
徹底的に国際的になり、どこの国だか一切判らなくなるのは変わりませんが、中国、韓国系をイメージした通信のCGはなかなか違和感が。あと色が緑から黄色に変わりましたし。
あと、殆ど全ての背景がCGです。
…データ貰ったらまんまゲームが作れそうですねぇ。
メインストーリーは攻殻機動隊1巻の6話、ROBOTRONDOまんまです。色々付加要素があるのですが、無駄です。
すごーく極彩色の華美な装飾が施されてるのですが、全然何とも思わず。脚本、シナリオの妙という部分はコミックに準拠しすぎで味わうことが出来ないし、問題の素子とバトーとの関係を深めるシーンがありません。参った。それが見たくて金払って見に行ったのに、素子が出るシーンはちょっとだけ。それもROBOTRONDOメインストーリーにちょっとくっついただけです。
…なんだそれ。
あの二人の関係を聞きたかっただけなんだよ! 1にも1.5にも2にも無かった描写をさ。「均一なマトリクスの向こうへ、アイツは行っちまったのさ」とかいう台詞も補足されてないし。
という訳でぼやぼやしてる内に終わってしまう。全然僕は楽しめなかったです。押井節は押井節だけど、押井節聞くだけで興奮できないし僕。
がっかり。凄くがっかり。

3/4
■プラネテス4巻

漫画とかアニメとかゲームとかいちいち感想を書くのもアレでナニで、陰口叩かれるのが怖いお年頃なのであんまり書かないように努めてたけど、いかん。これはいかんです。
おれはやさしくも配慮の出来る管理人でも無いので容赦なく、この世に存在する全人類はプラネテスの4巻を読んでいる事を前提にしつつ話します。
プラネテスってばおれは宇宙ものとして見てる。
宇宙ものって言えば、おれはあまりSF小説読まない不心得者で浅学なばかなのでよくしらないが、ロバート・A・ハインラインやらアーサー・C・クラークからさくらちゃんまでSFなんで、むしろ宇宙を描かない物語の方が少ないかもしれないですが、それにしてもプラネテスは画期的だった。
誰が言ってたか忘れたけど、スターウォーズの頃からリアルさを勘違いしてる動きがあるって話があって、どう言うことかというと、それまでは機体が傷ついたり、錆びたりしてる事はなかったんだけども(未来な訳だし、完璧じゃなければ未来じゃないという意識があったんだろう、きっと)、意識的に機体が傷ついてたりする事でリアルさを演出しようとして、それが広まったという話らしく、あーそうかねーと思ったんだが、その意味で言えばプラネテスに出てくるものは、傷つきまくっている。
結局想像の産物であることは間違いないんだし、それを責めるつもりは毛頭無い。だから宇宙ものとして見る、これは間違いないが、宇宙ものとして新しいかと言えば、新しくはない。
んじゃ何が面白いかと言えば、キャラクターの心理が実に今生きている人間とあんまり変わらないことにある。
未来の人なんだから完璧で完全で、些細なことでは眉一つ動かさないみたいな事は全くなく、ボルト一本を拾うことに奔走し、タバコ一本吸うことに悪戦苦闘し、たったコンパス一個拾うことに命を賭ける。主義だとか主張だとか理念だとか、悪だとか善だとか褒められる生き方とか、愛だとか恋だとか、全部陳腐でありふれていて、くだらない。そのくせ、「わがままになれ」だとか目茶苦茶な事を言いだし、生死を彷徨っても気合で直したりとか、もう実にテキトーである。もうちょっと他にやり方はないのか。そこで生な人間ドラマを魅せて貰っただの、気概を感じただの歯の浮くような台詞を言うバカは死ねばいい。
んじゃこの作品は何か。
ただ一点、「これだけ未来になっても人間はどうしようもない」それが確実に描かれている。
たったそれだけである。阪神V8を喜んだり、トンカツが食べたいと喧嘩したり、全然好き勝手に生きてる訳だ。
それを宇宙ものでやっちゃった作品てのはあんまり俺の記憶だと、無い。
宇宙は憧れであり、未来であり希望であり、だからこそ進化してたり、退化してたり、核戦争で死にかけてたり、巨大ロボットで戦ってたりしてほしいのである。
と、こういうどうしようも無さを見る漫画なのだなと思ったのだ、が。おいおいどうしたことだ。ファッキン。
なんだなんだこの宇宙人てのは。ばかか?
空気みたいに現れて空気みたいな印象で、宇宙人のくせに間が抜けていて憎めなくて、ヌミキタカゾ・ンシみてーな事を言いだす。おれが書いてた生活感漂う人間像とか関係ないし、しかも有り得ないことに、3巻で「こいつが出るよ」という予告を打ってるくせに、奴はまともな活躍をしない。
いいさ、いいのさ。騙されることはジャンプの嘘予告で慣れてる。でもいきなり宇宙人出してきてフォローらしいフォローもなく、放り投げってどういう意図なんでしょうか。理解できん。
そして構成。
アニメ版ではたった一話で収められてた機雷編が、もうばかみたいに長い。長すぎる。Vガンダムで言えばマーベットさんが出ずっぱり。まぁいい。マーベットさんは好きだから。でもファラ声のマーベットが主役のストーリーなど誰が見たいのか。いや、うそです。見たいです。ささやかなる一服を星あかりのもとでは大好きです。しかしだな、最終巻だぞ? 片方ではオデロが一生懸命努力して、木星に行ってる訳ですよ。
木星って言えばパプティマス・シロッコで、THE-Oで天才で木星帰りで女ったらしで、ジュドーが行って、キンケドゥでカラス先生な訳ですよ。海賊らしく奪いますよ。
星間飛行と言えばコスモクリーナーでイスカンダルで反射衛星砲でデスラーな訳です。
だからいくらなんだって、宇宙人が出てきて星間移動で何も起きない、許されないですよこんな事カテジナさんッ!!
宇宙人に愛の力を見せつける、マクロスUくらいのしみったれたドラマくらいやると思いましたよ。
ところが。本編見たら当代随一の萌えキャラ、ロックスミスの萌えシーンばかり。いや好きだけど。あんな良いキャラ他に居ないけど。あーもう、なんだろ。
その辺のテキトーさもプラネテスと言うか何というか…。

ごめん、おれやっぱプラネテス好きだわ。
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