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■春休み読書感想文 ∀ガンダムをよんで mof担
ロボットアニメは死に体である。
まー当然だろう。アホみたいに乱造され尽くされ、ちょっとやそっとの覚悟で作ろうとすれば過去の模倣になってしまう。
近年の作品はそれを見越してか、継ぎはぎのパッチワークの様な作品が多い。
エヴァンゲリオンなんかは特撮やら過去のロボットアニメやらを滅茶苦茶にぶち込み、それを意地で隠し通そうとしていた。
でも根底に流れている作品は大半がロボットアニメであり、一皮剥けば即座に何が元か判ってしまうという構造になっていた。
ナデシコは過去のロボットアニメを作品中で小馬鹿にしたような劇中劇を展開し、シナリオ的にも過去のアニメーションの模倣をしていた。こういう流れがあって、オマージュ万歳の流れになったのだろう。「ガンダムばっかりだからつまらない」と言ってライディーンとエヴァを繋ぎ合わせたラーゼフォン、過去の名作をなぞったロボットかと思いきや、唖然とするような馬鹿げた展開を見せてくれたビッグオー、過去のガンダムをそのまんま繋ぎ合わせて、隠そうともしないガンダムSEEDなど、末期である。業界内でリサイクルをしてるような状態はどう考えても死に体である。
アニメ業界を見てみれば空前の萌えアニメブーム。ロボットアニメは存在その物が希有で、一縷の希望を抱いて見るがその大半が茫然自失としてしまうような駄作ばかりで、本当に風前の灯下、その座を守りきったガンダムSEEDの健闘ぶりを褒めたいところだが、残念ながらガンダムSEEDは記す必要性も無いほどに馬鹿げた作品であることは言うまでもないことだ。
それではそんな死に体のロボットアニメ界で、∀はどういう戦い方をしたのだろうか。
1.
1999年、∀は放送が始まった。96年のXから3年。富野監督がガンダムの監督として作品を作るのは、93年〜94年のVガンダムから実に5年の月日が経っていた。もっとも、前年にはブレンパワードが放送され、この作品はファンの間で物議を醸した。
この頃のロボットアニメは、98年にガサラキ、99年にはリヴァイアス、ダイ・ガードくらいのもので、他はエロゲからの昇格組が地上波アニメに進出したり、カードキャプターさくらの放送が始まったりという頃だ。ちょっと書いただけでも∀ガンダムが突き進む道は茨の道だという事は判って頂けるだろう。Wガンダムで新規ファンを獲得するものの、ガンダムXはさっさとファンが離れ、途中で打ち切られた作品ではあるし、萌えアニメが氾濫し始めた頃で、富野ガンダムだからと言って騒ぐのは本当に一握りの人間だけだった。その上、メカデザインはシドミード、キャラデザインは安田朗という聞き慣れない名前。ブレンパワードのいのまたむつみ氏起用が信じられないのに、またしてもとてつもない所からの抜擢。英断なのか愚行なのか、傍目には判らないところがあった。
そして視聴。
唖然とした。一話目からガンダムに乗らず、股間を金魚で隠した主人公なんて初めて見た。その後股間を金魚で隠すような主人公は、戦闘に引き込まれていくのだが、なんともその展開はガンダムらしくない。主人公も他のキャラも、ガンダムっぽさが見えないし、ガンダムがそもそもガンダムっぽくない。
そもそも牧歌的な空気が支配するガンダムなんて今までに見たことがない。戦場で死んだり殺されたりする様を見て苦悶するような作品だった筈である。
死に体のロボットアニメで、救世主となるかに見えたガンダムは、ガンダムらしくなかったわけだ、あらゆる意味で。
その後ストーリーは少しずつガンダムらしさを見せ始め、怒濤のラストへ向かっていくのだが、そこまで待っていられなかった。
実際、僕は途中で白旗を揚げ、見るのを止めた。
その後ビデオの∀を見て自分の愚行に呆れかえったわけだが、明らかに∀の最初のインパクトは僕には強すぎたのだ。
なんでそんなに強烈だったか。
これはロボアニメの必然性、ひいては作品というものが持ち得る絶対の理論というものがあるからである。
2.
ロボアニメで主人公が、一話目から主役ロボに乗らない事は許されない。必然である。何故かと言えば主役ロボは作品の顔であり、主人公はロボに乗ったり操縦する事で漸く主人公になるのだ。それまでの主人公は主人公ではない。
これには他に、クライアントからの要求だとか、その他諸諸の事情がありそうだが、ここでは割愛する。
しかし、一話目が全ての作品で掴みであり、もっとも重要である事は間違いない。その中でロボアニメの場合、ロボが作品の顔なのだから、視聴者にアピールするには主人公とワンセットで覚えさせるのが一番分かり易いからだ。
他の作品でもそうである。剣客ものなら主人公は剣を使うのが必須だろうし、ヒーロー物でヒーローに変身しないのはおかしい。女の子がわらわら出てくる作品で、メインヒロインが出てこないのは変だし、ギャグ漫画なのにギャグが無いのはお話にならない。確実に必然とされるルールが存在し、一話目からそれが無いのは余程の理由が無い限りはタブーである。何をアピールしたいか判らないし、視聴者もどう見て良いのか判らない。
ちょっと考えただけでも判りそうなもんである。
では、ガンダムだと銘打っておきながら、主人公はニュータイプでも富野台詞を吐くでもなく、ガンダムにも乗らず、ガンダムがガンダムらしくないというのは何か。
重大な挑戦である。
先程説明したが、あれ程に危険極まりない状況下で一話目から挑戦状を叩きつけたのだ。
挑戦状を受け取れない奴は去れという重圧と共に、この作品は始まったのである。
3.
だからこそ、カッコイイかカッコワルイかの論議は大変に的外れではないだろうか。そもそも、物議を醸すためにわざわざ難のある人を引っ張ってきているのだ。既存の概念で接する事自体が馬鹿げている。
リサイクル、模倣しか出来ない業界の廃れ方とは対称的に、新機軸を打ち出したその姿勢こそ買うべきであり、見た目云々の議論は実に愚昧だと言わざるを得ない。
それこそ、「シスプリの白雪は可愛いいや、亞里亞の方が可愛い。いや、アニメ版のアニメーターの魂がある千影が…」程度の論議に見えてしまうのだがどうだろうか。
なお、キャラの名前と顔が一致しないほど筆者はシスプリを知らない。悪しからず。 |
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