11/27
超先生のご冥福をお祈り致します。

西区でトラックと衝突したオートバイの男性が死亡
先日の日曜の朝、僕の親友でもあった竹林明秀君が交通事故で永眠しました。
アクアプラス社員一同、ご冥福をお祈り致します。
(以上、ー`)<淡々と更新し続けるぞ雑記。ωもみゅもみゅより)

11/26
オタ進化説

■オタクは進化している。
これは過去に書いた僕の駄文と、色々な方と話した結果僕が持ち得た結論である。
その進化がどういうものか、そしてどの位微妙なものか、今日はその辺の話をろくすっぽ資料も集めず、考えていきたい。

■僕が苦手なオタには、3種類ある。
それは萌えオタ、やおいオタ、サブカルオタだ。
どうも前2種には拒絶反応すら起こす始末で、その手の人間が没入する漫画など相当数読んだが、どうにも合わない。
だからと言って絶対的に否定する訳ではないが。
最後のサブカルにしても、どうにも好きではない。
そもそもサブカルが持っていたカウンターカルチャーとしての匂いは年々薄れ、斜に構える姿勢ばかりが目につくのが苦手である。
そんな僕自身の印象はさて置き、この三種類を少し分析してみよう。

■萌えオタは、何処が原点か判りかねる。
妹萌えという系統で見るならば、「みゆき」が始祖だと考えられるし、総合的には「うる星やつら」がエポックメイキングではないだろうか、等と考える事が可能だが、どうにも明確ではない。
というのも、このジャンル分け自体がどうにも苦しい、という事に気付かねばならない。
考えてもみて欲しい。
女の子が居て、そのキャラクターが興味を引く物ならば、存在するだけでこの手のオタクは満足してしまうのだ。
この萌えという感情、は、甚だどういうものか説明するのは難しいが、一般的な定義を一言で言うと、「このキャラと一緒の世界に居たい」と感じる事だと僕は思っている。
たったそれだけである。
つまり極論を言ってしまえば、萌えオタを主眼に置くと、女性キャラを全面に打ち出した作品であろうとなかろうと、萌えてしまえば勝ちなので、オフィーリアだろうとスカーレット・オハラだろうと、きっと萌えに分ける事すら可能だと考えられる。
萌え作品があったから萌えオタが誕生したわけではないのだ。
少々強引だが、僕はそう考える。

■ではやおいオタを見ていこう。
やおい、という言葉自体は以前触れたとおり、1979年発行の同人誌、「らっぽりやおい特集号」が初めて使ったものとされている。
しかしながら、その始祖とされるものは、萩尾望都の『トーマの心臓』(1974〜)や、竹宮恵子の『風と木の詩』(1976〜)、山岸涼子『日出処の天子』(1980〜)等である。
しかし、そんなデータは良いのである。
問題は、この発想自体がどういう経緯で生み出されたかにある。
最近うっすらと判ったのは、このやおいオタが何に嗜好を見出すかというと、カップリングそのものであり、非常に無機質なものだという事だ。
一見すると大変無味乾燥な物であり、其処に価値を見出すことは、素人の僕には出来なかった。
しかも、このカップリングは、第一印象で大方決まってしまい、其処からは殆ど動くことがない。
この辺りも、大きく直感に頼る部分が多いのではないかと類推できる。
それこそ、ブルース・リーの言った「考えるんじゃない、感じろ」に通ずる所があるのではないだろうか。

■以上2つに比べると、サブカルはどうにも偏屈で近寄りがたい。
何故ならば、サブカルはオタクでありながら、オタクであることを全身で否定しているからである。
まずその成り立ちからして、異様である。
端的に言うならば、メインストリームの主文化に対して反駁した結果、辿り着いた先で面白いと思ったのがたまたまオタ文化だった、くらいの印象で、オタ類に分類出来るが、オタクではない。
オタク文化に染まりきらず、あっさり表面だけを掬う事を心情としている節があり、その姿勢はファッションとして捉えている感が否めない。
だから、オタク文化に染まりきった人間がサブカルに上がる(上がるというのもおかしい話だが)事は事実上あり得ないと考えられる。
しかし、この「面白い所だけ掻い摘む」姿勢は独特だと言わざるを得ない。

■さて、この三種をかなり大雑把に説明したが、実はこの三種類に共通点が存在する事に気付いただろうか。
それは、この三種とも、「作品本体の評価とは関係ない」事で楽しんでいる事だ。
カウンターカルチャーとしての性格が存在するサブカルは勿論、萌え、やおいも作品本体自体「どうでもよい」
もっと言ってしまうと、自分の直感のみに頼り、「面白ければ良いじゃないか」という所に行き着くのである。
そして、どうにも困ってしまったのは、この三種が現代には多すぎて、これ以外に分ける術を僕は知らないのだ。

■試しに、アニメの新番組一覧から、三種のどこに分類出来るかをやってみよう。

2003/11/2〜 円盤皇女ワるきゅーレ 十二月の夜想曲 萌え
2003/11/24〜 クロノクルセイド 萌え
2003/12/2〜 巷説百物語
2003/12/3〜 藍より青し 〜縁〜 萌え
2003/12/17〜 PAPUWA
2003/12/21 ギャラクシーエンジェル スペシャル 萌え
2003/12/22 BLACK JACK
2004/1/6 MEZZO 萌え
2004/1/7〜 マリアさまがみてる 萌え
2004/1〜 ゆめりあ 萌え
2004/1〜 北へ。〜Diamon Dust〜 萌え
2004/1〜 超重神グラヴィオン ツヴァイ 萌え
2004/2〜 勇午 〜交渉人〜
2004/2〜 妄想代理人 サブカル
2004 年春〜 忘却の旋律 萌え
2004 年春〜 みさきクロニクル 〜ダイバージェンス・イブ〜 萌え
2004〜 天上天下 萌え
2004〜 花右京メイド隊 La Verite 萌え
- 奥様は魔法少女 萌え
- ギャラクシーエンジェル (4期) 萌え

当初の予想に大きく反し、かなりの高確率で萌えにしか分類できておらず、やおいもサブカルも殆ど存在しないのだが、昨今の作品は、それでも殆どがこの三種で分類出来るのである。
分類出来なかった巷説百物語、PAPUWA、BLACK JACK、勇午 〜交渉人〜は、萌えに対抗する属性として、「燃え」なんて言われるが、これらは燃えとも何処か一線を画す気もする。
それはさておき、つまりこの手の文化を提供する側も、提供される側も姿勢が決まっており、其処から抜きんでる作品も無ければ、姿勢もほぼ存在しない。
だからこそ、一律的な作品評価しか生まれず、没個性的な考えを嫌うオタクは、其処からの脱却方法を摸索した結果、以上挙げた三種の様な、一種異形にも見える進化が起こったのではないかと類推できる。
つまり、キャラクターが琴線に触れたりするだけで満足したり、ネタになるから見てみよう、等というような極めてライトな姿勢が、いつの間にか主流になってしまったのである。

■恐らくはそういう過程を経て進化したにしてはお粗末な事に、昨今ではそちらの方が主流になってしまったのはなんとも虚しいことだと思う。
しかしながら、そう考えると大してその姿勢に腹も立たなくなった。
どうも、僕はその進化に乗り遅れてしまったようなのは、否めない事実だが。