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3/28
■最終更新

お久しぶりです。長いこと留守にしていて、申し訳ありませんでした。
4月からは大阪で研修に入り、その後も各地を転々とする予定です。思えば、僕にとっての学生生活は、このサイトと常に共にありました。思い入れも強く、社会人になってからも続けたいのもやまやまですが、どの道このdionとは契約が切れ、僕自身も二ヶ月ほどネットに接続できない生活になります。
つきましては、一旦、http://kaikou.gozaru.jp/に移転という形で、その後の展開につきましては保留という形で考えております。あと三日だけネットから離れるには猶予がありますので、その間に一本、書けたらなあと思っております。
こんな拙いサイトでしたが、訪問して頂いた皆様方には心から感謝しております。約4年間、大変お世話になりました。

11/21
■「萌え」は実在するのか?

萌えが何か問われ、即座に説明出来るという方は、恐らくごく少数だろう。そして、その説明も正しいとは限らない。
言葉の定義自体が極めて曖昧で、しかも多くの意味を統合した言葉のため、一口に説明出来るようなものではないのだ。
では「萌え」とは何か。
一つには、動植物、人、時には無生物などに対し向ける、愛情や好意の様な感情、若しくはその状態を指すとされている。対象が可愛い様子、無条件に愛でたくなる仕草、または動作などに対し使う事が多い。
ネット上では盛んに使われ、その萌えの度合いに関らず、躊躇することなく使われている。
しかし、ここで一つ疑問が生じる。仮に、以上に挙げたような意味ならば、何故敢えて、「好き」とか、「愛している」とか「可愛い」等という言葉を使わず、「萌え」という言葉を使うのだろうか。
一つには、「萌え」という言葉は「好き」とか「愛している」等よりも若干くだけた言葉だから、という事が挙げられるだろう。
故に、簡単に使えるため、盛んに使うのだ。
もう一つの理由を挙げるなら、「仲間意識」という奴だろう。仲間である人間が使うのだから、自分も使うという訳である。
以上の理由から、「萌え」という言葉は使われる。
さて、では本題に移ろう。
ネットでの文章には本気で言っていない言葉、即ち「ネタ」と、本気で言っている言葉が存在する。
本当には萌えていないのにも関らず、「萌え」と口にする事もあるだろうし、逆に、本当に萌えているため「萌え」と口にする事もあるだろう。
ここで確認するが、「萌え」という言葉はどの様な状況で使われるのだろうか。
モニタに映る二次元美少女に「萌え」と言ったり、曲線が多い機械に向けて「萌え」と言ったり、漫画の登場人物に対して「萌え」と口にしたりする。
では、現実に存在する人間に対し、「好き」や「愛している」の代替えとして「萌え」を使用できるだろうか。
答えは、「いいえ」である。「好きです、結婚して下さい」と恋人に対して言う事はあったとて、「萌えました、結婚して下さい」は、気の触れた空虚な言葉にしか聞こえない。
何故これが妙な言葉に聞こえるかというと、それは、相手が「萌え」という言葉を認識していないからである。
萌えという言葉はかなり狭い範囲でしか使われていない。従って、相手が「萌え」という言葉を認識していなければ、その時点でこの言葉は無意味になる。
もう一つは、先程も記した通り、「萌えは若干くだけた表現だから」という事が挙げられるだろう。
即ち、萌えという言葉は本気で言えるものではないのだ。
先に挙げた二次元美少女に萌えたりするという例も、全て、対象が物言わぬ相手である。即ち、萌えという言葉は萌えた対象に向けて使われる言葉ではなく、自分や、萌えという言葉を使う他者に向けて使われる言葉なのである。
ここから見えてくるのは、他者に向けて使われない、「萌え」が果たして現実世界で効力を発揮するのか? という事である。
答えは、「かなり難しい」だろう。結局自己か、萌えという言語を使う他者にしか効力を発揮しない以上、内に向けた閉じた言語なので、殆どが本気で言っていない言葉、即ち「ネタ」で使われる事が多いからである。
つまり、「萌え」は殆どが「ネタ」であり、実在するかどうかには疑問が生じるのである。
果たして「萌え」は実在するのだろうか?

10/4
■少女漫画での性表現の増加について

近年、少女漫画で性表現が増加してきたという話があった。今回はそれが事実なのかどうか、そしてどういう意味を持つのかを考えてみたい。

▼序論
僕はそこまで少女漫画を読む機会が無い。従って、少女漫画でも有名と言われる矢沢あい先生の漫画を読んでみる事にした。
「天使なんかじゃない」「ご近所物語」「paradise kiss」「NANA」(これは途中まで)を読んでみたが、年代を経る事に確かに性表現の数は増えている。
僕はそれほど数を読んでいないので、どの作品がパラダイムシフトを起こしたのかは判らない。
何しろ少女漫画の作品は膨大で、且つ明確な線引きが出来ているようには思えない。
と言うのも、昨今の漫画はボーダレス化が進み、少女漫画といえど男性読者を門前払い出来るような現状ではない。
2004年現在、アニメ化された少女漫画を見ただけでもそれは明らかで、「マリア様がみてる」「ふたりはプリキュア」「愛してるぜベイベ★★」などは、どう考えても男性に圧倒的な支持を受けていると考えられる。
また、少女漫画の体裁を取った性描写が満載のコミックも存在し、この辺りと本家少女漫画との線引きが曖昧になったのが原因、とも考えられる。
しかし、それらも一因だが、問題はもっと根深いものだと僕は考える。
それにはまず、男性主観の性描写と、女性主観の性描写との明確な違いを見ていく必要があるだろう。

▼性表現の男女差
男性主観の性描写と、女性主観の性描写の明確な違いとは、つまり男性はオルガスムスを一番に求めるが、女性はアクメを一番に求めないという所に起因するだろう。
簡単な話で、少女漫画では規制があるのかもしれないが、男性向けの青年誌のような絶頂シーンというものが存在しない。
性表現を全面に押し出した「覇王愛人」でさえもそのような絶頂シーンというものが無いのだから、意図的にすら思える。
魔法使いマールの冒険の、少女の夢見る性行為という特集を見ても、明確に絶頂を迎えていると判断できる絵の数は少ない。
それに比べ、男性向けの青年誌は、まず間違いなく絶頂シーンが男女共に出てくる。
これは、女性に対し、苦痛を与えているならば、罪悪感を抱くが、快楽を与えるのなら自らの行為も正当化出来る、という男性心理と、先に述べたオルガスムスを一番に考える男性心理があるためだろう。何しろ男性は大体がオルガスムスしか快楽を知らないのである。女性もそれしか知らないと考えるのも無理からぬ事である。
また、男性向けの青年誌では、男性の顔が明確に見えるようなシーンというのは少ない。見えるのは体の一部位だったり、胸板だったりと、キャラクタを判別する要素が少ない。これも意図的なもので、男性は作中の登場人物とセックスがしたいが故に、自分を重ね合わせる上で必要のない顔は排除されているのである。
しかし、先に挙げたサイトを見ても判るように、女性向けでは男性の顔がはっきりと出ている。これは、女性がカップリングなどに興味があり、性表現そのものに対する関心はそれほど無い事を表している。
ややこの話とは外れるが、海外での話と記されている、ザイーガこんなに差がある、男女間の萌えスチュエーションの違いに載っているシチュエーションの明らかな違いというのも興味深い。

▼処女に対する考え方
男性は、処女にはかなり勝手な思いこみがある。
例を挙げるまでもない事だが、「エロゲー」のヒロインの殆どは処女だし、要因としては男性が童貞だからという要因や、勝手な思い入れ(処女は優しいだの汚れを知らないだのとそういう思い入れ)が挙げられるだろう。
では女性はどう考えているのか。結論は簡単な事だった。女性にとっての処女は、男性にとっての童貞と一切変わらないのである。
処女のまま死んだら天使になるなんていう自虐的な意味での迷信があるし、ティーン向けの雑誌では処女を捨てるべき秘策の数々が書かれ、処女は捨てるべき事が奨励されている。
処女はダサく、恥ずかしい事なのである。従って、処女を捨てている漫画のヒロイン達はカッコイイのである。
芸能界を見ても、非処女系のキャラか処女系のキャラかで女性の支持はかなり開きがあったりする。この辺りは、男性には少し理解しづらい所だ。
では、処女的なダサさとは何だろうか。

▼処女とやおい
やおいについては過去何度も調べ、書いているがイマイチ判らない所が多い。
しかし、処女的な考え方とやおいを照らし合わせると、実に適合する部分が多い事に気づく。
やおいは、男性同士の恋愛や性行為などを、有名な作品のキャラクタを使って行う遊びの一種である。
やおいはゲイとは違う。そして、実際の男性は嫌いというやおい少女も多い。そして、作品の良し悪しには関係なく、やおいファクタを満たせばその作品はやおいとしての遊びに転じる事が出来る。
過去書いてきたやおいに対する僕の価値観はこう云ったところである。
何故男性同士なのか、どうして性行為が存在するのに性行為がメインではなく、カップリングがメインなのか等、疑問は未だ残るが、処女的価値観を照らし合わせると実に簡単にその謎が解ける。
何故男性同士なのかと言えば、それは自分が傷つきたくないからである。自分とは一切関係の無い男性というある意味ファンタジーの世界で何を行おうと、自分にリスクが生じる事はない。男性は誰とセックスしようが性感染症にだけ気を付ければ良いが、女性はそうではないのだろう。そして、男性的価値観であるオルガスムスも、男性同士ならば簡単に表現しやすい。
また、やおい少女の脳内に存在する男性像は、かなり現実のものとは乖離しているようだ。
例えば、すね毛も胸毛も陰毛も生えていないという。おそらく成人男性で、どれも生えていない方は居ないはずである。
そして何故やおいなのかと言えば、処女なので、性的行動を女性的視点から見ることが出来ないという事がかなりのウェイトを占めているだろう。故に、ファンタジーで誤魔化せる男性同士ならば性的な鬱憤も脳内で晴らす事が出来るし、自分が妄想の中で傷つく事も無い。
逆に処女ではないのなら、別に脳内で晴らす必要はない。
処女とやおいは切っても切れない仲だと言えるのではないだろうか。

▼総論
従って、処女にとって非常に居心地の良いのがやおい空間で、性表現のある少女漫画誌はむしろ正道に引き戻そうと作用しているのではないか、と考えることが出来る。
何が正道かといえば絶対的多数派の意見であり、それが全てとは言わないが、男性からしてみると随分無責任な話だとも思えるのである。

8/25
■TYPE-MOONに対する考察

今回はずいぶん前にアイデアを頂いた、〜さざなみ壊変〜さんのリクエストである。

同人ゲーム「月姫」の爆発的大ヒット、更に、商業化した後の「Fate/stay night」での記録的な販売数も記憶に新しい、今もっとも求心力があると言って良いメーカー、TYPE-MOON。
今回はそのヒットの要因と、これからを探る。

▼1. そもそもTYPE-MOONとは何か?
まずは、オフィシャルホームページ(18歳未満はお断り)、【特集】「人気オリジナル同人ソフト『月姫』製作者に聞く」全話分掲載ゲームいろいろ情報)、「TYPE-MOON」ロングインタビューまんだらけ同人館/コラム)、『TYPE-MOON』サークルさんにインタビュー!!メロンブックス委託サークル紹介ページ
などをご覧頂いても結構なのだが、簡単に説明だけさせて頂く。
元は、デビュー作である「月姫」を世に送り出すために結成された「同人サークル」であり、最初期には、宣伝フロッピーすら手に取られなかったが、口コミでその面白さが伝わり、気がつけば同人の規模を超えた大ヒットを生み出した。その後、月姫はアニメ化、漫画化され、ファンディスク「歌月十夜」の売り上げも順調だった。その後、過去に出した作品群をまとめた、「月箱」を最後に、同人としての活動を終え、今年1月には商業化して初の「Fate/stay night」を発売、これも「エロゲー」としては大ヒットだった。
また、それ以外の活動としては、構成メンバーは同じだが、別サークルの「竹箒」で連載していた「空の境界」を頒布、その後、CDドラマ化され、今年6月には講談社ノベルスから一般書籍として販売された。
また、奈須きのこ氏個人としての活動としては、小説現代五月増刊号「メフィスト」にて、「空の境界 第一話/俯瞰風景」が掲載されたり、ファウスト3号で新作、D D D JtheE.を発表している。
なお、D D D JtheE.は挿絵をTYPE-MOONスタッフであるこやまひろかず氏が担当している。
TYPE-MOON代表である武内崇氏は、笠井潔氏著「ヴァンパイヤー戦争」の、イラストとデザインを担当している。
と言った所がTYPE-MOONの簡単な説明である。

▼2. ヒットの要因

では、ヒットの要因について探っていく事にしよう。
TYPE-MOONが制作した訳では無いので、上には書かなかったが、全面的に協力した作品として、渡辺製作所現フランスパン)と協力した、「メルティブラッド」という作品がある。
この作品は格闘ゲームであり、つい最近では株式会社エコールソフトウェアが、メルティブラッド アクトカデンツァとしてアーケード筐体として制作しているという。
このメルティブラッド、TYPE-MOONのヒット要因を考察する上では相当重要である。
というのも、渡辺製作所とTYPE-MOONに、ある類似性を見る事が出来るからである。
一つには、同人レベルを遙かに凌駕した技術力と、執念とも言えるような作り込み具合。
もう一つには、構成メンバーが、過去ゲームメーカーに在籍していた経歴を持つという点だ。これはヒット要因に全く無関係とは言えない。
如何なる事情があったかは判らないが、一度夢破れ、そこから再度復帰するという事は、尋常ならざる精神力を必要とする。ましてや、一度ゲームメーカーというゲーム界で制作者の側に回り、プロにまでなった人間が、同人を根城として、ゼロからスタートを切るというのも、とんでもない博打である。
元々、他で何をやってもダメだったという訳ではなく、ある程度の地位や名声も手に入れながら、敢えて自分の作品のみで挑戦するような信念で、あの作品は作られているのである。
保証も後ろ盾も無い状態での作品作りが如何に危険か、判らない人間は居ないと思う。
何より、この世界は宣伝の力が大変に大きい。宣伝に頼らず、面白いソフトを作れば売れる保証など全くと言って良いほど無い。が、それでも其処に敢えて臨んだのである。
何が何でもヒットさせなくてはならなかった、いわば背水の陣で臨んだのがヒットの要因につながったのではないか。
第二に、これまた同人であるという事が大きく絡んでくる。
基本的に、同人は同人であり、売れるという保証も無ければ、そもそも売れるという概念がすでにおかしい。見てくれるならば見て欲しいが、見なくても一考に構わない。その位のスタンスで同人というものは成り立っている。従って、客に媚びる必要などほとんど無いのだ。
それが、生活全てを懸けて創作する商業との大きな違いであり、特色でもある。
同人作品として作られた「月姫」は、読んでみれば判るが、絶望的な長さである。その総数原稿用紙にして5000枚というのは特色になっては居るが、それは客観視すれば大変おかしい。
何故ならば、「エロゲー」というジャンルに於いてもっとも重要なのは、「セックス」である。
先に書いたと思うが、「萌え」の根本は「セックスしたい」であり、そのジャンルに於いての唯一にして最強の武器は、「セックス」なのである。
これは確実に揺るがない。「セックス」を特色にするべきである以上、簡単に「セックス」を疑似体験出来るような構造になるのが普通であるのに、敢えてそれをしないのはそもそも「エロゲー」である必然性が無い。
その大原則に従ってしまえば、「月姫」は「セックス」の疑似体験部分までたどり着くのに5時間近くを費やさなければたどり着けないので、大変おかしい作品だという事になる。
だが、この「セックス」を主軸に置かなければならないという大原則は、LeafやKeyと言った、ビジュアルノベル黎明期の作品が打ち破っている。これらの作品に於いては、「セックス」は「主軸」から「物語を形作る構成要素の一つ」へと変化し、メインは美少女との擬似的な心の交流に当てられている。
それをユーザーは許し、「エロゲー」は「セックス」を「主軸」に置かなくても存在が認められるようになった。
その路線を辿ったのが、「月姫」だとすれば話は早いのだが、それにしても原稿用紙5000枚は矢張りおかしいのだ。
というのも、5000枚が5000枚になった理由が、その文章の何割かを、主人公とヒロインとの格闘シーンが占めていたりと、「美少女との心の交流」とはかけ離れているのである。
ユーザーに許された路線を辿りながら、片方ではわざわざ全く逆の路線を走るという姿勢も、売れるという考え方から考えると、甚だ理解に苦しむ。
今でこそ男性キャラが多い作品も増えてきたが、2000年当時は、「燃え」路線を走るニトロプラスが処女作である「Phantom」を、月姫発表後に発売したくらいで、実に売れ線からはかけ離れていたと言って良い。
つまり、5000枚をアピールする事は、今までの「エロゲー」とは別ベクトルであることを殊更に強調する意味しか持たず、販売実績に即繋がる確証など皆無だったと判断していいだろう。
まさに、同人でしかあり得ない、自分の好きな物を作っているという自信が、5000枚には込められていたのだ。ヒットの第二要因としては、しがらみに縛られず、ある程度は自由に創作できたという点が挙げられるだろう。
さて、第三の要因である。
「月姫」のヒットは非常に面白い経路を辿っている。何故ならば、雑誌媒体や各メディアで報道された事は一度もなく(何故ならば、「同人ソフト」だからである)、口コミで評判を呼び、大ヒットに繋がったという、実に信じがたい経路を辿っているからである。
派手な宣伝をした訳でもなく、知名度があった訳でもないのに、作品だけが一人歩きし、少しずつ売れていくというのは、実に理想的な話ではあるが、これは殆ど奇跡に近い。
何故ならば、まず、面白いという事を広める人間が善意の第三者であり、一切の金品を受け取っていないという点がまず挙げられる。あくまでも善意なので、宣伝しなければならないという拘束をされていない、自由な人間なので、何を言うかも予測出来ない。それが幸運に転ぶとは限らないのである。
二つ目には、先にも述べたように美少女との心の触れ合いに主軸を置かない、ストーリー重視のお話であるため、購買者には受け入れられづらかったろうと判断できる点である。
新機軸を打ち出すという事は、それだけリスクを伴う。その上、新サークルという事で知名度も無いに等しいのだ。安心できる要素が殆ど無い。
三つ目には、絵が特徴的であるという点である。
いわゆる「エロゲー」主流の絵柄というのは、Keyやleaf、F&Cなどが形作った絵柄に他ならない。それが、いわゆる売れ線、ドル箱路線の絵柄とするならば、「月姫」の絵柄はそれとはかけ離れている。なぜ売れ線絵柄が支持されたかと言えば、それは「エロゲー」の判断材料に於いて大きなウェイトを占めるのが、絵柄だからである。何しろ、長いプレイ時間の殆どを、絵と向き合ってプレイする訳である。文章はあらすじやプロローグ、体験版でしか判断できない以上、直感的に合うか、合わないかで判断できる絵柄の好みというのは、判断材料の上位に躍り出るのも理解できる。そして、その絵柄が過去の名作の系統を組む絵柄ならば、安心して買うことが出来るだろう。また、数が多く、似たような絵柄ならば、仮に予算を割いておらず大した出来でなくとも、パッケージを見ただけで買ってくれる客が居てもおかしくはない。「エロゲー」に於いてのパッケージ、絵柄は大変重要になってくるのだ。
にも関わらず、「月姫」の絵柄は大変特徴的と言えよう。これもまた、ヒットする要因としては疑問である。
四つ目にはその膨大なシナリオである。
先に述べたように、原稿用紙5000枚にも及ぶ莫大なシナリオ量を「月姫」は誇っている。
確かに、5000枚もの分量を書くのは生半可な苦労ではない。しかし、購買者にしてみると5000枚は荷が重い。単純に考えて、5000枚もの長文を目の疲れるモニタで見るのは、大変辛い。更に、先に述べたように、「セックス」に辿り着くまでも非常に長く、プラスの要因には必ずしも転ばないのだ。
と、これだけの疑問要素が存在する。故に、奇跡的なのである。
また、これは確固たる自信はないのだが、口コミで伝播していく課程に於いて、インターネットが大きな役割を果たしたのではないだろうか。
「エロゲー」というニッチなジャンルで仲間探しをする際に、インターネット上では多種多様な趣味の持ち主が居て、尚かつ簡単に交流が出来る。
とするならば、「エロゲー」のヒット要因としてインターネットの果たす役割は大きいと言えるだろう。
第三には、一概には言えないだろうが、インターネットの普及が大きく絡んできたのではないだろうか。
また、ヒットの要因として大きな役割を果たしたのは、矢張りシナリオの面白さである事は言うまでもないだろう。
しかし、それだけではなく、其処には「伝奇」ジャンル故の強みが存在したと判断できる。
というのも、「エロゲー」の中で高い評価を受けていたleafが出していたソフトの中で、雫や痕と言ったソフトは、ジュブナイルな伝奇ものとして描かれている。
この二作は「エロゲー」界では大変評価された。が、96年にこの2作が出た後、後発に続く作品は無かった。leafはその後、97年5月に「萌え」のエポックメイキングと言っても良い「To Heart」を発売し、完全に伝奇路線からは遠ざかる。また、Tacticsが98年5月に発売した「ONE」や、「ONE」のメインスタッフがほぼ継承されたKeyが、99年6月に発売した「kanon」により、「エロゲー」業界は、「純愛」「萌え」強調路線が全面に押し出され、この手のジャンルに付随したソフトが一気に増加した。つまり、00年12月の「月姫」まで、「伝奇」ジャンルは全くの真空状態だったと言って良い。
また、leafが98年5月に発売した「white album」や、Keyが2000年9月に発売した「AIR」は、一説によれば「萌え」論調に水を差すかのような内容だったという。それと直接的な因果関係があるかどうかは定かではないが、leafやKeyは、この時期以降、強い影響力を持つ求心的なソフトを制作していない。
その結果、96年というビジュアルノベル黎明期の雰囲気を色濃く残し、尚かつ居心地の良い空間を提供した「月姫」に軟着陸するのも、不思議では無いだろう。
この絶妙なタイミングも勝因の一つと言えるだろう。

▼3. TYPE-MOONの今後

斯くして、他にも多々の不確定要素を秘めながらも「月姫」は大ヒットする。
勘違いして欲しくないのは、これは間違っても「サクセスストーリー」ではないという点だ。実力があり、苦杯を舐めて再び這い上がったのであって、平坦な道のりでヒットした訳では決してない。
さて、TYPE-MOONは「月姫」ヒット後もヒットを飛ばしているが、今後はどうなって行くのだろうか。
まず、講談社ノベルスという広い市場でもヒットを飛ばした事は、シナリオライターである奈須きのこ氏の実力がニッチなジャンルである「エロゲー」以外でも通用する事を示している。
ファウスト誌でも新作を載せ、順風満帆にも思えるが、それには疑問が残る。
まず第一点だが、既にヒットの要因として考えられる、背水の陣では無くなっている事だ。
現に、「Fate/stay night」はシナリオも評価は高いが、演出面にも力が入っていた。また、オープニングにもアニメーションを使用し、制作費はかなりの域に達しているのではないかと類推できる。既に制作費に事欠く状態ではないのだ。
また、これもヒットの要因であった、「制約なく好きな事を出来る」という点も問題があるだろう。既に商業化し、企業として動き出している以上、ヒットしない事は許されない。
先に書いた、冒険とも言えるような新機軸を打ち出す路線はやりづらくなっているのではないだろうか。
そして、ファンの拡大の点である。
確かに「空の境界」は大ヒットを記録したが、既にメディアの力も借り、宣伝も打ち、下地が完璧な状態でのヒットである。口コミだけという極めて危険な状態からのヒットとは、ヒットの質が違う。
また、「月姫」はアニメ化され、漫画化もされたが、購買層が爆発的に拡大した、とは思えない。
これは「Fate/stay night」の大ヒット時にも言われたことだが、ヒットしたからといって「エロゲー」ジャンルの拡大に繋がるかは大きく疑問が残るという見方がされていた。
現に、「エロゲー」バブルが弾け、客層が下火になっていた「エロゲー」ジャンルが、件のソフトのヒット後息を吹き返してなどいない。
つまり、「月姫」で開拓した客層を拡大出来ているかどうかには、疑問が残るのである。
ファウスト誌に掲載されたD D D JtheE.は、文体こそ独特に変化しているものの、「空の境界」や「月姫」と非常に似た作品構成である。主人公と、どこか人間とはズレたキャラクタが、どこか閉塞感のある世界で戦いを繰り広げるというあの構成である。
AIRの件の時にも書いた事だが、媒体が違う以上、新機軸を打ち出していく事は必要であり、客層の拡大をするには絶好の機会なのだから、どんどん冒険するべきだと個人的には思う。
なぜなら、「エロゲー」というジャンルは客にしてみれば、長く付き合うには非常に苦しいジャンルで、客層の世代交代も大変に早い。ゲーム業界自体も閉塞している昨今、生き残りを懸けた策をこれでもかと投入しなければ、世代交代の波を乗り越える事は出来ない。
そんな意味では常に背水の陣である事は間違いない。
「エロゲー」というニッチなジャンルに留まるのか、それとも新たなフィールドを求めるのか。その分岐点が今だと言えるだろう。

8/21
■単なる世代交代

どうも、女性オタ向けの作品ばかりが増え、男性オタ向けの作品が衰退してきたという話や、コンシューマでは女性向け市場の方がシェアを獲得しているという話があるようだ
しかし、本当にそうなのだろうか?
そもそもこの発言の意図というのは、「女性向け作品だけが増えるのは気に入らん」という、反フェミニズム的な考え方であり、男性側が訴えている内容であることは明白である。
ということは、衰退されたとされている男性オタク向け作品は、最近になって明確に「衰退した」と男性オタクにもはっきりと判断できる、ということである。
そして、目の敵にしている「やおい」と呼ばれる男性と男性の恋愛、およびセックスを主題に置いた作品は、なぜそこまで目の敵にされるのだろうか。
ここ数年、男性オタク向け産業では「萌え」が流行だった。これは揺るがない事実だ。
僕は「萌え」の良さが未だに微塵も理解できない。なぜならば、「萌え」はストーリーや絵、展開や設定に独創性がある訳ではない。むしろ、その独創性の無さ、過去の作品を判っていなくとも理解できる底浅さが、簡単に没頭でき、簡単に共感できるというところで強みになっているだけで、それが良いこととはさっぱり思えなかったからである。
また、「萌え」を突き詰めれば単純に、「セックスしたい」に集約される訳で、どうもそれは恥ずかしいと感じる。
対して「やおい」は、その語源が「山無し、落ち無し、意味無し」であるところから見ても、これまたすっぽりと独創性など皆無である。
どこに面白さを感じるのかと言えば、表面上はカップリングというキャラクター同士がいちゃついたり、セックスしたりという所が面白い訳で、このカップリングがもっとも重要だそうである。
乱暴な言い方で言えば、「萌え」は「美少女ならば誰でも良いからセックスさせろ」だが、「やおい」は、「このキャラとこのキャラがいちゃついているのが見たい」である。が、簡単に考えてしまえば、男女間のセックスを直接的に描くのは恥ずかしいので、女性から見た場合未知数である男性と男性ならば、判らない部分は全てファンタジーになり、間接的であるとカモフラージュできるからなのだ。だから、「やおい」を好む女性は、男性キャラを女性キャラにした上でセックスさせたり、男性キャラに擬似的な女性器を勝手にあることにしたりと、全て表現を間接的にすることで直接的な表現から逃げているだけである。だから、さらに集約すれば「セックスしたい」にやっぱり集約されてしまう。
従って、ベクトルの向きどころか、スカラーすらほとんど同じと言って良い。あり方が少しだけ違うだけだ。
だからこそ、「萌え」から「やおい」へブームが移り変わっても、それは実に緩やかな変化であり、少しもおかしいことではない。それに違和感を感じている人たちは、「萌え」というブームに全力で振り回されていたことに気づくべきだし、ブームに振り回されていたのだから、これからもブームに黙って振り回されればいいのだ。
今更どうこう言うことは、自分が間抜けだと言っているようなものなのである。

8/8
■AIR劇場版に対する可能性

今回はTHE-OのディレクトリのTHE-Oさんのリクエストである。

序 FINALFANTASY劇場版に見る映画とゲーム

先日、FINALFANTASYの映画版を見た。素晴らしい映像技術は、他の追随を許さず、リアルよりリアルらしいCG技術は、日本の技術が如何に高度かを如実に現していた。
しかしながら、肝心の映画としての側面では、最後までパッとせず、映像のレベルが如何に高いか、どれだけCG技術が優れているかというだけを映像で語っているだけに過ぎず、余りにも人物がリアルすぎるため、普通の役者を雇わなかった理由と、そもそも映画にするほどの内容かどうかを、考え込んでしまうような出来だった。
元々、FINALFANTASYは言わずもがな、日本が誇る珠玉のRPGシリーズである。
ドラゴンクエストと並び、その面白さは群を抜いており、ファミコンやスーパーファミコンのシェアを上げた一番の立役者と言っても過言ではない。
セガサターンとプレイステーション、NINTENDO64という、数年前に起きた次世代機種争いに、スクウェアとエニックスの動向が注目され、結局スクウェアのFFZを発売したプレイステーションが次世代機種争いに勝利したように、その影響力は甚大である。
そのFINALFANTASYの路線が変更されたのも、奇しくもそのFFZからだった。
それまではスーパーファミコンのROMという制約があり、実現出来なかった大容量の映像表現が可能になり、最先端のCG技術を駆使し、映画を意識した演出を散りばめたFFZは、大ヒット。
これまでの常識を塗り替え、更なるFINALFANTASYの歴史を作っていくかと思われたが、その路線に早くも蔭りが見え始める。
それは、プレイステーションで発売されたソフトの殆どが、大容量に幅を利かせたCG技術を駆使したソフトばかりになり、技術的進歩では確かにスクウェアのFINALFANTASYに並ぶソフトは無かったが、家庭用ゲームソフトの映像技術の底がグンと上がったために、FINALFANTASYの新たなウリである、「最先端のCG技術の駆使」が際立たなくなり、単なる技術進歩の博覧会に過ぎなくなっていった事だった。
それまで、グラフィックの面では、ドット打ちが主流であり、そこで頭打ちになっていたため、極めて明確な差異もなく、そのレベルを描画の最高レベルとしてゲーム文化は進んできたが、ここに来て、明確な頭打ちのラインが無くなってしまったのである。
以前ならば、だからこそシナリオに力を入れれば、それがすぐにユーザーに伝わるし、それがウリというキャプションを付けることも容易だった。頭打ちされているからこそ、グラフィックの綺麗さよりも演出効果にこそ重きが置かれ、そこで差異を示せば良かった。
労力を考えたとしても、あるレベルまでという限界点が既に見えており、他のゲーム性などを重視すれば良かったのだ。
が、頭打ちされないゲーム業界になった途端に出てきた問題は、ゲーム性の消失という大きな問題だった。グラフィックに莫大なコストと労力が必要となり、そしてその結果、映像以外が重要とされなくなってしまった事は、ゲームからゲームである本質を奪っていった。
ゲームの表面的な評価は、見た目であり、それは即ちグラフィックの流麗さである。表面的な技術競争を繰り広げる以上、労力が偏るのは目に見えた話であり、ゲーム性は段々と無くなっていった。
次世代機種争い以降、ゲームがゲーム性を失った理由はもう一つある。
それは、映画的娯楽とゲーム的娯楽とは基本的に相容れないという根本的な理由だ。
映画的娯楽は基本的に、ユーザーが介入する事を許さない。介入できないからこそ、悲劇は悲劇であり、喜劇は喜劇として見ることが出来る。そして、基本的に何度も見るようには出来ていない。数度、数十度ほどなら耐えられるかもしれないが、基本的には一回目のインパクトが最も重要であり、そこで得られる興奮こそを至高とする。
シナリオに沿った完璧な理論や展開を至高とし、デウスエクスマキナが起こるような作品は忌避される傾向が強い。
それに対し、ゲーム的娯楽はユーザーに介入させる事が基本である。ユーザーはその作品世界で自由自在に動き回ったり、難解なパズルに取り組んだりする。自分で動かせるからこそ面白いのであり、取っつき易ければ易いほど、没頭しやすい。そして、何度も試行錯誤し、その結果、得点を得たり、作品世界での目的を達したりとご褒美を貰う。従って、何度も繰り返すように出来ている。
また、ランダムもゲームの醍醐味だ。予期せぬ出来事もゲームだからこそ許される。
ゲーム性が一般に高いと言えるソフトは、ユーザーの自由度が高く、簡単にそのゲームのルールを掴む事が可能と言えるだろう。逆に、低いソフトは、映画的娯楽の方向に傾いている度合いが強いために、ユーザーを選ぶだろう。
さて、冒頭に書いた劇場版FINALFANTASYの話に戻ろう。
この作品は、まだゲーム性を持っているFINALFANTASYを、完全に映画的娯楽である、映画フォーマットに直した作品である。その結果、ゲーム的娯楽に甘えていた不確定要素の楽しみや、ユーザーが介入する余地などが見え隠れし、シナリオ的には甘いと言わざるを得ない。そして、映画的娯楽をゲームに持ってきた時に感じた、「映画っぽさ」は、映画で見れば、「良くある映画的要素」に過ぎず、古くささとも取れた。
劇場版FINALFANTASYが失敗した原因は、映画的娯楽とゲーム的娯楽を理解していなかったのではないか、と私は思う。

2 「エロゲー」と「萌え」の基礎知識

では、AIRとはどのような作品なのだろうか。
AIRは一般的に言われる所の、「エロゲー」と指されるジャンルに属するソフトが最初である。
この「エロゲー」は、18歳以下の購入を禁じた、性的な描写を多用する事で商品的価値を生み出しているパソコン用ソフトの事を指すことが多い。
そして中でも「ビジュアルノベル」と呼ばれる、背景画像や、人物の絵、そして一枚絵に、文章が組み合わさり、音楽や音声が流れるジャンルのソフトが大半を占めている。
先ほどの映画的娯楽と、ゲーム的娯楽で言うなら、この「ビジュアルノベル」は、選択肢が存在する以外にユーザーが介入する余地はないため、このジャンルはどちらかと言えば、映画的娯楽に属するジャンルである。
勿論、多分に漏れず、件のAIRはこの「ビジュアルノベル」に属する「エロゲー」である。
従って、半ばゲーム的要素を持っていたが故に失敗したFINALFANTASYよりも、成功する確率は高いのではないか、とも思える。
何より、AIRは数年前に、市場を大いに賑わせた人気作であり、販売メーカーであるKeyも、最近もクラナドという全年齢対象用ビジュアルノベルソフトを発売し、かなりの売り上げを記録した所から見ても、メーカーとしての実力は未だ健在であり、ユーザー数も相当の数が居るため、これはヒットの要因に大いになり得るのではないか、とも思える。
が、しかし、それは「エロゲー」の持つ、一つの側面を抜きにして考えた場合の話に過ぎない。
それは、この「エロゲー」は、「萌え」という文化と密接に関係している事だ。
「萌え」とは、ここ数年で急に出現してきた言葉で、簡単に訳せば、アニメ、ゲーム、漫画、小説などのキャラクターや、関係性に対し、極めて好ましいという感情を表す言葉である。
しかしながら、「萌え」は、極めて好ましい物に適用するだけではない。「萌え」の本質は、「萌え」の対象物に対する価値観の等しい人間と、価値観を共有するために急遽出来上がった、コミュニケーションのためのツールに過ぎないのだ。
例を挙げよう。「萌え」を理解できる人間は、ある特定の要素に反応する。
それは、体操服であったり、猫耳であったり、黒いストッキングだったりするが、その特定の物に対し、フェチズムを露わにし、自分が「萌え」ている事を主張する事により、それと同じような価値観を持ち得る人間を探す足がけにしている。
従って、個人のみで行動する「萌え」オタクというのは殆ど居らず、大抵の人間が、価値観を共有できると確信した人間とのみ交流する。
一般社会に於ける友人関係などより、その関係性は強固である。何故ならば、それはフェチズムを言い合うという一般的見地から見れば異端の行為によって培われた、恥の共有によって成り立った関係性であり、関係性を反古にした場合、そのフェチズムが露顕されたり、或いはニッチなフェチズムを共有していた場合、二度と巡り会う機会は無いかもしれない。
また、「萌え」とは、そのベクトルがやや、性的方向や、フェチズム方向へと進んだ方面の文化に過ぎず、これまでのオタク文化との違いは、経験が要らず、より本能に直結しているという点と、文化が浅いため、簡単に没入できるという点だ。
これらから鑑みるに、「萌え」層に没入できる人間は、若く、これまでに他の文化で一定の功績を上げていない、或いは歴史の古さや、文化としての深さの前に、門前払いを喰らっている可能性が非常に高い。
一般に、文化は年代が経てばある程度までは成熟し、その後は廃れるものである。
その寿命が長いにせよ短いにせよ、歴史が長ければ、触れる人間の数が多くなり、文化としては成熟の方向へと向かう。理性的な文化は即ち、理性的な方面へと進むだろうし、本能のまま突き進むような文化は、より本能を剥き出しにする方向へと進むだろう。
文化に触れた者同士で競い合う方向に大抵はなっていき、そのフォーマットでこれ以上の発展が望めないという果てが見えたとき、文化は終結する。
つまり、歴史浅い中で産まれてくる作品は、確固とした価値観によって築かれたのではなく、一種発展途上故の輝きを持っていると類推する事も大いに可能だという事だ。
今現在の「萌え」を客観視すると、理性的か、本能的かという選択肢では、明らかに本能的なベクトルへ進んでいるし、歴史は浅く、まだ評価の域には達していないと言えるだろう。
以上の点から考えると、基本的に「萌え」とは歴史浅い、若い文化と見る事が可能である。また、本能に直結するという事は即ち、映画的娯楽、ゲーム的娯楽の前に、理性的では無いという事を意味する。
では、何故その中でAIRは支持されたかを考えてみたい。

3 AIRヒットのからくり

さて、何故支持されたかという事を検証する上で、AIRの作品としての内容に触れるのがこの場では最も簡単だが、まず、敢えて作品的内容よりも、どういう作品構成かという事のみで作品を評価する。
AIRの作品構成は、3部構成になっており、それぞれがほぼ独立した内容を取っている。
第一部では、3人のヒロインの過去と、抱える問題に切り込み、第二部ではその中でもメインヒロインである観鈴にまつわる過去の話、第三部では現代へと舞台を戻し、観鈴が迎える苛烈な運命を描く。
第一部では、3人のヒロインを選択する関係上、ゲーム性が若干存在するが、第二部、第三部ではプレイヤーに自由に行動させるという意味での選択肢は存在せず、ユーザーは些細な変更は出来るにせよ、根本的な内容に介入する事は出来ない。
この事から、第一部以降では映画的娯楽性を重視していると見て良いだろう。
この様な思い切った構成を取った作品は、「エロゲー」では希少である。
大多数の「エロゲー」では、多数のヒロインの中から攻略対象を選び、数々の困難を乗り越え、ゲーム的カタルシスである「ご褒美」を貰い、満足するという構造が非常に多い。
そんな中で、ゲーム性を廃し、映画性のみを重視したAIRが特異であり、目を引くのはわかりやすい事実だ。
第二に、ヒット要因を満たしているという点が非常に多い。
Keyの前作、kanonは爆発的なヒットを記録し、他社製品であるToHeartと並び、「エロゲー」の中で爆発的ヒットを生み出した。
「エロゲー」という娯楽が未だ若く、未分化だったのもあり、このブームは未だに超えられていない。即ち、「エロゲー」や「萌え」のエポックメイキングだったと言っても過言ではない。
事実として、その後「エロゲー」界では、この二商品の絵に酷似した絵が、「エロゲー」のスタンダードになっていった感があるのは、否めない事実だ。
ブームになった商品にあやかり、二匹目の泥鰌を狙う中で、作品の顔である絵にも作品性を見出し、それが伝播していったと仮定しても、恐らく誤りではないだろう。
そんな中でスタッフも同じで、万全の状態で出した作品である。注目されない訳がない。
第三に、「エロゲー」故に出来る価値観があったためだろう。
先に述べたように、「エロゲー」「萌え」は直接的、本能的な文化であり、ダイレクトな刺激を最も優先する。
それは即ち、「エロゲー」の名前が示すように、性的描写を優先し、他を排他するという風潮に他ならない。
つまり、性的描写が優れていれば、基本的に他要素が明らかに未熟でも容認するという事である。
これを責めることは出来ないだろう。それが「エロゲー」たる所以であり、「エロゲー」が特化すべき特質だからである。
だがしかし、其処にこそビジネスチャンスが隠れていた訳である。
序章で述べたように、次世代機種争い後のソフトは、開発費が高騰し、ビジュアル面での質が底上げされたため、そちらばかり優先され、ユーザーは頭打ちを認めなくなった。
が、この「エロゲー」は違う。性的描写が入っていれば即ち、他の要素がどれだけ未熟だろうと容認されるのだ。
未熟でも容認される要素が、仮に飛び抜けてレベルが高ければ、それはどうだろうか。
つまり、FINALFANTASYが見せた、実際には「良くある映画的要素」が、ゲームにフォーマットを移すと「映画っぽさ」へと化け、ユーザーの目を誤魔化したように、「良くある文学的要素」や、「良くあるドラマ的要素」が、「エロゲー」界に於いては「文学っぽさ」や、「ドラマっぽさ」へと化けたのである。
そして、「エロゲー」文化の若さは、更に幸運な事を作り出した。
ユーザーの目が肥えていないため、「エロゲー的価値観」と、「一般的価値観」は全く別の物として認識され、「エロゲー」の価値は、「エロゲー」同士の比較対象によって算出されるようになっているのである。
他の製品と比べれば、未熟であって良い筈の部分のレベルの高さは一目瞭然である。
理性的でない作品が一般的である「エロゲー」界で、少しでも理性的ならばそれは、相当に理性的と判別されるのではないか。
従って、これらが悪い方へ働く訳がないため、ヒットしたと考えられる。

4 総論

過去、多くの「エロゲー」出身作品が地上波、OVA等でアニメ化しているが、「エロゲー」ユーザー以外も取り込み、大ヒットとなった作品の記憶は無い。
それは即ち、グラウンドをある程度の歴史があるアニメに移した事で、地上波ならば性的描写はざっくりカットされるのが当たり前であり、その部分を削り、やや厳しめの価値観で観察された場合、「エロゲー」的価値観は性的描写以外を容認する傾向があるため、結果的に容認されなかったのではないかと考えられる。
しかし、「エロゲー」的価値観に端を発した作品は、非常に増えてきているのも事実である。
つまり、一点のみが優れていれば、或いは、ブームとなっていれば、その作品を認めようという動きから産まれた作品である。
昨今のアニメ業界を全て判っている訳ではないが、作品の量は言うまでもなく過去最高であり、コストがガクンと下げられる技法が導入された訳ではない以上、何処かにボロが出る。
それが、コストを安く下げられ、かつ既にユーザー層が存在し、その上で目も肥えていない上、何でも購入してくれる「エロゲー」ユーザーに注がれてもおかしくはない。
何が悪いとは言わないが、そのような作品が仮に支持されていると判断された場合、「手抜き」と言えば失礼かもしれないが、優れた作品を生み出す風潮になっていくとは思えない。
その風潮を作るのは、ユーザーだと言うことも我々は忘れてはならない。面白くないなら面白くないと言うことも必要なのだ。
AIRの客観的評価を、私が今してみれば、理性的傾向はやや強く、本能的傾向がやや少なめである。映画的娯楽傾向は高めで、ゲーム的娯楽傾向は薄い。
そういう作品ではあるが、これも「エロゲー」的価値観であり、一般的価値観にそのまま直せば、理性的傾向は更に薄まると考えられる。
実は、先ほどの3で、私はテーマ性やドラマ性を一切考慮に入れていない。それこそが映画というメディアでの切り札であり、最も根本である筈なのに、敢えて書き記す必要性が無いほどに、それは割と陳腐な内容なのだ。
そういう作品が、広く、深く、古い映画というフィールドでどんな評価を受けるのかは非常に楽しみではある。
公開は2005年初頃。勿論、私は見に行く予定はない。

7/23
■ブーム

ブームという奴がどうも苦手である。
常に消費する側であり、作り出す側に立たない僕にとって、享受すべき事を強要されてる感覚があり、ちっとも好ましいと感じられない。
尚且つ、別に知っていても利点はと言えば、十把一絡げのファンとその関連の会話が出来るという事だけであり、それは作品が面白いとか、そういう作品自体の評価とはかけ離れている。
かといって、忌避し続けても、「そんな事も知らずに良く知った風な口を叩けるな」と言われるのが嫌なので、ある段階になったらえいやっと触れるのである。
これが実にもどかしい。
かといってブームが来る前から作品を知っていたとて、何の意味も無いし、選定眼があった事にもならない。ブームになった作品に関っても、作者側以外には殆どメリットは無いのである。
逆に僕はひっそりと見ることの出来る、ファンが少ないB級な作品を好む。
好きであっても文句を言われず、嫌いになっても文句を言われない。
webの世界では、殆どの人間がクリエイタとして生きる事が可能だ。そう、享受し続けるだけの僕であっても。そのクリエイタ視点に立ったとしても、ブームをわざと起こす事が悪いだの良いだの言ってる輩は、クリエイタだろうとそうでなかろうと、はっきり言って失笑に値する。そしてそれに言及する輩も(僕も含めて)、矢張り下種なのである。
ブームに関ると、自分が有象無象の一つであり、十把一絡げの一員にしか過ぎない事を再認識させられる。
だから僕はブームという奴が苦手なのだ。

7/17-2
■さらばMe

3年以上連れ添ってきた史上最悪のダメOS、windowsMeとついに手を切った。今は2000なのだが、パソコンがこんなに快適な物だったとは知らなかった。
昔書いたかもしれないが、ブルーバックだけでも10通りほどあり、しかもそれを見ない日はない。
対応OSと称しながらも、謎のエラーを起こし落ちる事は日常茶飯事。
剰え、USB2.0のPCカードを購入し、いざ喜び勇んで挿入し、速度を確かめるも、依然と変わらぬ遅さで、何事かと良く説明書を見直すと、「windowsMeではUSB1.1速度です」
最初から付いてきたIEEEのPCカードは認識すらせず、数時間放置した途端にリソースを馬鹿みたいに食って、まともに動くアプリケーションなど無い。
一日に10度ほど再起動を繰り返し、しかも普通に終了する事は極めて稀だ。
しかしどうだろうかこの2000のすばらしさ。
動作は快調、放っておいても殆どリソースを食うこともなく、シャットダウンはMeのそれよりも確実で尚且つ早い。
エラーに泣かされたあのアプリケーションもこのアプリケーションもまともに動作し、USB2.0の速度に舌を巻いた。
ディ・モールト素晴らしい。感動した。
でも、なんだかメモリ周りが若干重い気がする。気のせいだなきっと。

7/17
幼年期の終り

村上ヒサシさんから頂いた本の感想をリハビリがてらに書く。
さて、いきなり本題に入るが、この本はSFである。
正直なところ、SFという奴は殆ど読んでいない。従って、まともに読むのはこれが初めてだった。
さて、このお話は、突如「オーバーロード」という宇宙人が来襲する所から始まる。
突然攻めてきて、謎のオーバーテクノロジーで人類を攻撃し、危うし人類! という事になれば3流ロボットアニメの出番だが、(若しくはモルダー)この作品に於いてはそんな事はない。
オーバーロードはほぼ完全に、人類に大して無干渉である。
そればかりか、人類が差別の為に用いた宗教や思想、国家等を取り払う手助けをし、少しずつ人類は今まで見たことの無いほどの平穏と安息を手に入れることになる。
しかし、オーバーロードの目的は、その後にあったのである。
ここから先は本編の内容に深く触れるので、文字色を変更するが、彼らの目的とは、人類の神化にあった。
人類が持つ第六感だのは、神化への伏線であり、神という高次元の生き物に進化するという予兆だったのだ。
そして、オーバーロードはその神のベビーシッターであり、ゆりかごである人類に多生の温情をかけただけだったのである。
斯くして地球は、神化した子孫によって「遊び」の様に崩壊し、地球人類と呼べる人間は絶滅する。

ここから浮かび上がってくるのは、オーバーロードが中間管理職としては非常に好感の持てる存在だったという事である。
結局自分達の種族は神になれないが故に、この中間管理職ポジションにいることが出来るという、永遠の中間管理職だと言うのに、ゆりかごなだけの人類に温情をかけるという姿勢は大変素晴らしいと思える。マクロな視点で世界観を描くというのは、昨今のミクロな視点ばかりが取り沙汰される流行とは対極で、壮大なテーマは大変面白かった。とはいえ、既に日本のアニメでは幾度と無く使われているため、新鮮味を感じる事は無かった。大変面白い作品でした。

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